モイmoy
凍った湖の上で足をふんばり、巨大な岩を両手で頭上にかかげる建御名方神。藍色の衣の袖をたくし上げ、腰には柄頭が輪になったまっすぐな剣。背後に盛り上がった氷の筋と雪山、岸に1本の柱が立つ
神さま図鑑 No.014

建御名方神(たけみなかたのかみ)

タケミナカタ・出雲の神々

千引の石を指先にかかげて現れた、諏訪の力の神

  • 勝運・スポーツ
  • 五穀豊穣・食
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ひと目でわかるタケミナカタ

よみたけみなかたのかみ
別名南方刀美神(延喜式神名帳)、建御名方富命、諏訪明神、お諏訪さま
神格力の神/諏訪の地を開いた、風と水をつかさどる神
おもなご利益勝運・武運、五穀豊穣、雨風と水の守り
神使・ゆかりの生き物龍蛇(中世の縁起で諏訪明神が現した姿)、鹿(御頭祭で神前に供えられた)
おもな神社諏訪大社(長野県)、鎮西大社 諏訪神社(長崎県)ほか全国に約1万社
家族父・大国主神。母は『先代旧事本紀』で高志沼河姫。妃・八坂刀売神。きょうだいに事代主神
登場する書物『古事記』上巻(『日本書紀』には登場しない)、『先代旧事本紀』、『延喜式』神名帳、『諏方大明神画詞』

原文で読むひとこと

誰(た)そ我が国に来て、忍び忍びかく物言ふ。然らば力競べせむ
『古事記』上巻(武田祐吉訓読)

誰だ、わたしの国に来て、こそこそとこんな話をしているのは。それなら力比べをしよう。千引の石を手に現れた建御名方神の、最初の言葉です。

どんな神さま?

建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主神の子で、国譲りを迫る建御雷神(たけみかづちのかみ)にただひとり力で立ち向かった神です。千人がかりで引くほどの大岩を手の先にささげて現れ、力比べを挑みましたが、手を氷や剣の刃に変える相手にかなわず、科野(しなの)の洲羽(すわ)の海まで追われて、この地からほかへは行かないと誓いました。

諏訪大社は、こうして出雲から移った建御名方神が、新たに信濃国を築き治めたと伝えています。この神が登場するのは『古事記』だけで、『日本書紀』には名前がありません。それでも諏訪の地では、雨や風、水をつかさどる神、狩りと農業の神、そして勝負の神として祀られ、「お諏訪さま」と呼ばれる神社は全国に約1万社あるといわれます。

神話のなかのタケミナカタ

千引の石をささげて現れる

事代主神(ことしろぬしのかみ)が国を譲ると答えたあと、建御雷神は大国主神に、ほかに意見を述べる子はいるかと尋ねました。「もうひとり、建御名方神がおります。ほかにはおりません」。父がそう答えているうちに、当の本人が千引の石を手の先にささげて姿を現します。

建御名方神は、自分の国に来てひそひそと話を進める相手をとがめ、まず自分がその手を取ると力比べを申し込みました。武田祐吉が「手のつかみ合い」と注すこの勝負で、建御名方神がつかんだ建御雷神の手は、立っている氷のように冷たい立氷(たちび)に変わり、さらに剣の刃に変わりました。たじろいで退くと、今度は建御雷神が建御名方神の手を取り、若い葦をつかむように握りつぶして投げ放ちました。建御名方神は、そのまま逃げ出します。

洲羽の海での誓い

建御雷神は逃げる建御名方神を追い、科野国の洲羽の海で追いつめました。武田祐吉はこの海を長野県の諏訪湖と注しています。殺されかけた建御名方神は、「恐れ入りました。わたしを殺さないでください。この地のほかへは参りません。父・大国主神の言葉にも、八重事代主神の言葉にも背きません。この葦原中国は、天つ神の御子の仰せのままに献上します」と申し出ました。

出雲から遠く離れた信濃の湖のほとりが、この神の居場所と定まった瞬間です。諏訪大社は、上社前宮の地を、一説に祭神が最初に居を構えた諏訪信仰発祥の地と伝えています。上社本宮の境内には、父神をまつる大国主社もあります。

中世の縁起が語る諏訪明神

延文元年(1356年)、諏訪上社の大祝(おおほうり)の一族に連なる諏訪円忠が『諏方大明神画詞』をまとめました。もとは絵巻でしたが絵は早くに失われ、詞書だけが伝わります。國學院大學の神名データベースは、この画詞に、諏訪の神がもともとこの地にいた洩矢神(もりやのかみ)を倒して鎮まったとあることを挙げ、外から来た神として描かれる点で『古事記』と通じると述べています。

同じ画詞には、諏訪明神が巨大な蛇の姿で現れる話や、蝦夷との戦いに向かう坂上田村麻呂を導いた話も見えます。湖の龍蛇の神であり、武士を勝たせる神でもあるという、諏訪信仰のふたつの顔がここにそろっています。

古事記と日本書紀のちがい

建御名方神は『古事記』にしか登場しない神です。『日本書紀』全30巻のどこにも、この名は出てきません。神代下第九段の本文で大己貴神(大国主神)が意見を求める子は事代主神ひとりで、力比べの場面もありません。『古事記』の中でさえ、大国主神の子を並べた系譜の段には名がなく、母も記されていません。武田祐吉は国譲りのこの部分を、あとから挿し入れられた説話と注しています。

諏訪の神そのものは、『日本書紀』の終わり近くに一度だけ現れます。巻第三十の持統天皇5年(691年)8月の条に、使者を遣わして「龍田風神・信濃須波・水内等神」を祭らせたとあり、須波(すわ)の神は龍田の風の神と並んで朝廷の祭りを受けています。ただし、ここにも神の名は記されていません。

名前と系譜がはっきり書かれるのは平安時代になってからです。平安時代はじめの『先代旧事本紀』は、大己貴神が高志の沼河姫と結ばれて生まれた子を建御名方神とし、「信濃国諏方郡の諏方神社に坐す」と記します。『延喜式』神名帳には信濃国諏方郡の「南方刀美神社二座」が名神大社として載り、承和9年(842年)には『続日本後紀』に、南方刀美神へ従五位下が授けられた記事が見えます。

家系図で二つの書物を切りかえて見る →
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姿のひみつ

力比べを挑むために現れた建御名方神が、千引の石を頭上にかかげて踏みしめる姿を描いています。背景には、のちにこの神が鎮まる諏訪の冬景色として、凍った湖面に走る御神渡りと、岸にそびえる御柱を重ねました。逃げる場面ではなく、天つ神の使いに正面から挑んだ瞬間を選んでいます。

  • 両腕をかかげ、指先で支える巨大な岩(千引の石)

    『古事記』は、建御名方神が「千引の石を手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて」来たと記します。武田祐吉の注では、千人で引くような巨岩です。『古事記』で千引の石が出てくるのは、伊邪那岐命が黄泉比良坂をふさいだ岩とこの場面の2か所だけで、それほどの岩を手の先で持ち上げる姿に、並外れた力が示されています。

    『古事記』上巻(武田祐吉注)

  • 太い美豆良、袖をたくし上げて腕を見せた藍色の筒袖の衣、膝下を結んだ白い袴、勾玉の首飾り

    美豆良や足結、首の玉飾りは、記紀の文中にも見え、埴輪の姿とも重なる古墳時代の男子の装いです。神話の時代の姿は伝わらないため、文献と埴輪の両方で確かめられるこの装いで描きました。建御名方神は武器ではなく腕力で挑んだ神なので、袖をたくし上げ、岩を支える腕を見せています。衣の藍色は原典にはない、絵としての選択です。

    風俗博物館『日本服飾史』「衣、褌の男子」

  • 腰に下げた、柄頭を輪にした反りのないまっすぐな剣(環頭大刀)

    柄頭に輪の飾りをつけた環頭大刀は、古墳時代に大陸から伝わった大刀のかたちで、挂甲をつけた武人の復元姿にも用いられています。『古事記』の建御名方神は剣を抜かず、素手の力比べを挑みました。そのため大刀は腰に下げたままにし、刀身は後の時代の反った刀ではなく、反りのないまっすぐな剣としています。

    『日本大百科全書』「環頭大刀」/風俗博物館『日本服飾史』「挂甲をつけた武将」

  • 凍った湖面を横切って盛り上がる氷の筋(御神渡り)

    諏訪湖が全面結氷すると、南の岸から北の岸へ、高さ30センチから1.8メートルほどの氷の山脈ができます。上社の建御名方神が下社の八坂刀売神(やさかとめのかみ)のもとへ通った道筋と伝えられ、八剱神社がこの筋を拝観して、その年の作物や世の中の吉凶を占います。観測の記録は応永4年(1397年)までさかのぼります。

    長野県諏訪地域振興局「諏訪湖の御神渡り」/『世界大百科事典』「湖」

  • 湖の岸にそびえる樅の大木の柱(御柱)

    諏訪大社の四つの宮では、寅と申の年に社殿の四隅へ樅の大木を建てる御柱祭が行われ、柱は計16本にのぼります。大きなものは長さ17メートル近く、重さ約13トンで、車もコロも使わず人の力だけで山から曳き出します。804年の桓武天皇の代からは、信濃国をあげて奉仕されるようになったと諏訪大社は伝えています。

    諏訪大社「式年造営御柱大祭」

ご利益と信仰

諏訪大社は建御名方神を、雨や風、水をつかさどり、信濃国を開いた力の強い神として、農業・狩猟・航海・勝負の守り神と説明しています。古くは湖の竜神や霊蛇への信仰だったと考えられ、上社でだけ授けられる龍蛇の絵馬にもその面影が残ります。五穀豊穣の願いは祭りにも表れ、下社春宮の筒粥神事では、米と小豆と葦の筒を一晩炊き続け、筒に入った粥のようすでその年の作物の豊凶を占います。

勝負の神としての信仰は、武士の時代に大きく育ちました。諏訪大社によれば、平安時代のはじめに征夷大将軍・坂上田村麻呂が戦勝を祈り、鎌倉時代には源頼朝が社領を寄進して、霧ヶ峰での御射山(みさやま)の狩りの神事に諸国の武将を率いて参列しました。甲斐の武田信玄は「諏方南宮法性大明神」の旗印を掲げて出陣し、上社本宮の四脚門は、慶長13年(1608年)に徳川家康が家臣の大久保長安に命じて寄進したものです。

狩りの神としての顔も残っています。殺生を罪とする仏教の考えが広まった時代にも、諏訪の神は神符を授けて鹿の肉を食べることを許したと伝えられ、その神符や「鹿食免(かじきめん)」の箸を携えた人々が各地に信仰を広めました。上社の4月15日の例祭・御頭祭には、かつて75頭の鹿の頭が供えられたといいます。

会いに行ける神社

  • 諏訪大社 上社本宮(かみしゃほんみや)

    長野県諏訪市

    建御名方神を祀る。守屋山のふもとに鎮まり、本殿を設けず神体山を拝む古い祭祀を伝える。境内には大国主社もある。

  • 諏訪大社 上社前宮(かみしゃまえみや)

    長野県茅野市

    祭神が最初に居を構えた諏訪信仰発祥の地と伝わる。境内の子安社に、母神の高志沼河姫命を祀る。

  • 諏訪大社 下社春宮・秋宮(しもしゃはるみや・あきみや)

    長野県諏訪郡下諏訪町

    建御名方神・八坂刀売神に兄神の八重事代主神を合わせ祀る。神霊が半年ごとに春宮と秋宮を行き来する。

  • 鎮西大社 諏訪神社(ちんぜいたいしゃ すわじんじゃ)

    長崎県長崎市

    「おすわさん」と呼ばれる長崎の総氏神。10月7日から9日の大祭「長崎くんち」は国の重要無形民俗文化財。

家系図のなかのタケミナカタ

きょうだい
事代主神

『古事記』は建御名方神の母を記さず、大国主神の子を並べた系譜にも名を挙げていません。母を高志沼河姫とするのは平安時代はじめの『先代旧事本紀』で、諏訪大社では妃神の八坂刀売神とともに祀られています。 上の一覧は『古事記』による関係です。家系図で日本書紀と見くらべる

よくある質問

力比べに負けた神が、なぜ勝負の神とされるの?
『古事記』では建御雷神に敗れますが、諏訪では信濃国を切り開いた力の強い神として祀られてきました。中世の『諏方大明神画詞』は坂上田村麻呂の蝦夷平定を導いた神と語り、武士たちは軍神として各地に勧請します。後白河法皇がまとめた歌謡集『梁塵秘抄』には「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島・香取・諏訪の宮」とうたわれ、国譲りで戦った鹿島の神と並んで、東国の武神に数えられました。
建御名方神と建御雷神の力比べは、相撲のはじまり?
『古事記』の力比べは手のつかみ合いで、「相撲」という言葉は出てきません。研究では、農耕儀礼として行われた相撲神事が反映しているとみる説があります。人どうしの力比べとしては、『日本書紀』の垂仁天皇7年に、出雲から召された野見宿禰(のみのすくね)が当摩蹶速(たいまのけはや)と「捔力(すまひ)」をとった話が別に伝わります。
諏訪大社に本殿がないのはなぜ?
諏訪大社は、上社本宮・下社春宮・下社秋宮が本殿を持たず、自然そのものを御神体とする古い信仰の形を伝えていると説明しています。上社は神体山を、下社は春宮が杉、秋宮がイチイの御神木を拝みます。いっぽう上社前宮には、昭和7年(1932年)に伊勢の神宮の古材で建てられた本殿があります。
御柱祭は次はいつ?
御柱祭は寅と申の年、数えで7年目ごとに行われ、正式には式年造営御柱大祭といいます。4月の山出しで山から柱を曳き出し、5月の里曳きで各宮へ運んで、社殿の四隅に建てます。諏訪大社は、次の大祭を令和10年(2028年)、戊申(つちのえさる)の年としています。

出典・参考資料

  • 『古事記』上巻(武田祐吉校註)
  • 『日本書紀』巻第二 神代下(第九段)・巻第六 垂仁天皇・巻第三十 持統天皇
  • 『先代旧事本紀』地祇本紀
  • 『延喜式』巻第十 神名下
  • 『続日本後紀』巻第十一
  • 國學院大學『古事記』神名データベース「建御名方神」
  • 諏訪大社 公式サイト
  • 鎮西大社 諏訪神社 公式サイト
  • 長野県諏訪地域振興局「諏訪湖の御神渡り」
  • 『改訂新版 世界大百科事典』「諏訪信仰」「諏方大明神画詞」「諏訪大社」
  • 『日本大百科全書』「諏訪大社」「諏訪信仰」「環頭大刀」
  • 風俗博物館『日本服飾史』

神話の解釈やご利益には諸説があります。図鑑の書き方と絵の考え方はこの図鑑についてをご覧ください。

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