
ひと目でわかる天神さま
| よみ | てんまんだいじざいてんじん(天神さま)/すがわらのみちざね |
|---|---|
| 別名 | 天満天神・北野天神・火雷天神・日本太政威徳天・菅公 |
| 神格 | 平安時代の学者・政治家が、亡くなったあと神として祀られた人物神 |
| おもなご利益 | 学業成就・合格祈願、書道や詩歌などの芸事、厄除け |
| 神使・ゆかりの生き物 | 牛(境内には伏せた牛の像が多い)。ゆかりの木は梅と松 |
| おもな神社 | 北野天満宮(京都府)、太宰府天満宮(福岡県)、防府天満宮(山口県)、湯島天満宮(東京都) |
| 家族 | 父・菅原是善、母・伴氏。菅原氏は曾祖父の代に土師氏から改めた家 |
| 登場する書物 | 『菅家文草』『菅家後集』(本人の詩文集)、『拾遺和歌集』、『大鏡』、『北野天神縁起』 |
原文で読むひとこと
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
春の東風が吹いたら、その香りをこちらへ送っておくれ、梅の花よ。主人がいなくなったからといって、春を忘れてはいけないよ。
どんな神さま?
天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)は、菅原道真(すがわらのみちざね、845〜903年)を神として祀った名で、ふつうは「天神さま」と呼ばれます。道真は平安時代の学者で、右大臣までつとめた人物です。『古事記』や『日本書紀』の神話に出てくる神ではなく、実在した人が亡くなったあとに神となりました。
無実の罪で大宰府(いまの福岡県)へ移された道真は、2年後にその地で亡くなります。そのあと都で落雷や要人の死が続くと、人々はそれを道真の怒りと受け止め、雷の神として恐れながら祀りました。恐れられた御霊は、時代が下るにつれて和歌や詩の神となり、江戸時代には寺子屋の子どもたちが拝む学問の神さまへと姿を変えていきます。
天満宮・天神社の名で全国に祀られ、受験の季節には合格を願う人が多く訪れます。境内に梅が植えられ、伏せた牛の像が置かれているのも、天神さまの社ならではの景色です。
神話のなかの天神さま
都を去る日、庭の梅に歌を残す
昌泰4年(901年)の正月、従二位・右大臣だった道真は、左大臣・藤原時平との政争に敗れ、突然、大宰権帥(だざいのごんのそち)として九州へ移されることになりました。昌泰の変と呼ばれる出来事です。都を離れる前、道真は日ごろ愛してきた屋敷の梅に「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」と詠みかけました。
この梅が主人を慕って一夜で大宰府まで飛んだという「飛梅(とびうめ)」の話は、のちに生まれた伝説です。承久元年(1219年)の詞書をもつ『北野天神縁起絵巻』(承久本)で、梅が筑紫へ飛んだという一文が加えられたのが早い例とされます。太宰府天満宮の本殿に向かって右手には、いまも御神木の飛梅が立っています。
伏して動かなくなった牛
大宰府での道真は、政務に関わることも許されないまま暮らし、延喜3年(903年)2月25日、59歳で生涯を閉じました。太宰府天満宮の由緒によると、遺骸を牛車にのせて東北の方角へ進んでいたところ、牛が急に伏して動かなくなりました。
これを道真の思し召しと受け取った門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その地に葬って廟を建てます。延喜19年(919年)には朝廷の命で社殿が造られ、墓所の上に社殿が建つ太宰府天満宮のはじまりとなりました。
清涼殿の落雷と北野の託宣
道真の死後、都では不幸が続きました。延喜9年(909年)に藤原時平が亡くなり、延喜23年(923年)には皇太子の保明親王が世を去ります。朝廷は同じ年、道真を右大臣に戻して正二位を贈りました。
それでも延長8年(930年)6月、雨乞いを話し合っていた宮中の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫らが命を落とします。3か月後には醍醐天皇も亡くなりました。人々はこれを道真の怒りと結びつけ、北野にもとから祀られていた雷の神とも重ねて、道真を「火雷天神(からいてんじん)」と呼ぶようになります。
天慶5年(942年)には多治比文子(たじひのあやこ)に、その後、近江の比良宮の神職の子・太郎丸にも、北野に祀ってほしいという託宣があったと伝わります。天暦元年(947年)、平安京の北西を守る北野の地に社殿が建てられました。
古事記・日本書紀とのつながり
天神さまは記紀に登場しません。『日本書紀』が完成したのは養老4年(720年)で、道真が生まれる120年あまり前のことです。記紀の神々が神話の時代に属するのに対し、天神さまは生まれた年も亡くなった日もはっきりした人物が、死後に御霊として祀られたところから始まりました。
それでも、道真の家をさかのぼると記紀の世界に行き着きます。菅原氏は、道真の曾祖父・古人(ふるひと)の代に土師(はじ)氏から改めた氏です。土師氏の祖とされる野見宿禰(のみのすくね)は、『日本書紀』の垂仁天皇の巻に登場します。7年の条では、当麻蹶速(たいまのけはや)との力くらべに勝ちます。32年の条では皇后の葬儀にあたり、殉死の代わりに土でつくった人や馬を立てるよう申し出て、土部(はじ)の職を与えられました。さらに古い祖は、天照大御神の子・天穂日命(あめのほひのみこと)とされます(『新撰姓氏録』)。
道真自身も、記紀の時代の記録を読み込んだ学者でした。『類聚国史(るいじゅうこくし)』は道真が編纂し、寛平4年(892年)に完成した書物です。『日本書紀』をはじめとする国史の記事を、神祇・帝王・政理など18の部門に分けて並べ直しています。六国史の最後にあたる『日本三代実録』の編纂にも加わりましたが、完成は左遷直後の延喜元年(901年)8月で、撰者の列から道真の名は外されています。
姿のひみつ
この絵は、天神像のなかでも代表的な「束帯天神像」の型にならい、正装の道真が畳の上に坐る姿を描いています。初期の天神像には目を見開いた「怒り天神」もありますが、ここでは細面に口ひげと短いあごひげをたくわえた、穏やかな表情を選びました。雷神や落雷の場面は描いていません。
黒い袍の束帯と、纓を後ろに垂らした冠
束帯は平安貴族の正装で、いちばん上に着る袍(ほう)の色は位で決まっていました。平安時代中ごろの摂関期からは四位以上が黒とされ、この決まりにあてはめると、従二位・右大臣まで上った道真は黒を着る身分にあたります。冠の纓(えい)を後ろへ垂らすのは文官の形で、学者の家に生まれた道真にふさわしい装いです。
有職故実(束帯の位袍と垂纓冠)/『公卿補任』(道真の官位)
右手の笏(しゃく)と、腰の飾り太刀
笏は束帯のときに右手に持つ細長い板で、もとは儀式の次第を書いた紙を裏に貼る、備忘のための道具でした。晴れの儀式では、帯剣を許された文官も飾りのついた太刀を佩きます。束帯天神像も、笏を持ち、太刀を帯びた姿で描かれるのがふつうです。
有職故実(笏・飾太刀)/慶應義塾所蔵『束帯天神像』(伝雪村筆)
繧繝縁(うんげんべり)の畳に正坐する姿
繧繝縁は、朱や青、緑などを濃淡の段に織り出した畳の縁で、もとは天皇の座に用いた最上級のものです。大臣の座には一段下の高麗縁(こうらいべり)が使われましたが、神仏の像を据える座には繧繝縁も用いられます。道真をこの畳に坐らせるのは、臣下ではなく神として表すためと考えられます。
有職故実(畳縁の格式)
背後に咲く紅白の梅
道真は11歳で作った漢詩「月夜見梅花」で、梅の花を照る星にたとえました(『菅家文草』巻第一)。都を去るときも、別れの歌を詠みかけた相手は梅です。北野天満宮では命日の2月25日に梅花祭が営まれ、白梅と紅梅の小枝を挿した「梅花御供(ばいかのごく)」が神前に供えられます。
『菅家文草』巻第一/北野天満宮 梅花祭
梅と並ぶ老松
北野の社の創建を伝える『最鎮記文』には、社殿を建てる相談をしているあいだに、右近の馬場に一夜で松林が生じたとあります。北野天満宮の境内には、この一夜千松の霊を祀る一夜松神社があります。室町時代の束帯天神像にも、天神と縁の深い木として松と梅を左右に描いたものがあります。
『最鎮記文』/文化遺産オンライン『束帯天神像』(香川県立ミュージアム所蔵)
前に伏した黒い牛
道真は乙丑(きのとうし)の年に生まれ、湯島天満宮によれば亡くなった日も丑の日でした。北野天満宮は、神号に含まれる大自在天(インドのシヴァ)と、日本太政威徳天に通じる大威徳明王が、それぞれ白い牛と水牛に乗る姿で表されることも、天神と牛を結ぶ理由に挙げています。立ち姿ではなく伏せた姿にしたのは、葬列の牛が伏して動かなくなった話によります。
北野天満宮「北野天満宮と牛」/湯島天満宮「由緒・歴史」/太宰府天満宮「御由緒」
ご利益と信仰
平安時代の天神さまは、まず鎮めるべき御霊でした。永延元年(987年)には一条天皇の勅使が北野に遣わされ、「北野天満大自在天神」の神号が贈られます。正暦4年(993年)には正一位・左大臣が、続いて太政大臣が追贈されました。罪を着せられて都を追われた人が、臣下として最高の位と官を贈られたのです。
恐れの対象だった天神は、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、無実の罪を晴らす神、正直や慈悲の神、和歌・連歌の神として拝まれるようになります。14世紀ごろには、道真が中国に渡って禅を学んだという「渡唐天神」の物語が禅僧のあいだで生まれ、梅の枝を手に中国風の衣をまとった天神像も描かれました。実際の道真は、中国へは渡っていません。
学問の神さまとしての信仰が庶民に広がったのは江戸時代です。寺子屋での教育が普及すると、天神さまは読み書きを学ぶ子どもたちの神となり、命日の2月25日や毎月25日には子どもたちによる「天神講」が開かれました。誕生日の6月25日と命日がともに25日だったことから、いまも25日を縁日とする天満宮が多くあります。
会いに行ける神社
北野天満宮(きたのてんまんぐう)
京都府京都市上京区
天暦元年(947年)、平安京の北西を守る北野に創建。全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社を名のり、梅苑には約50種1500本の梅がある。
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)
福岡県太宰府市
道真の墓所の上に社殿が建つ「天神信仰はじまりの地」。延喜19年(919年)に勅命で社殿が造られ、本殿前に御神木の飛梅が立つ。
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)
山口県防府市
九州へ向かう道真が勝間の浦に立ち寄った縁から、延喜4年(904年)の創建と伝わる。日本で最初に創建された天神さまと伝えている。
湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)
東京都文京区
天之手力雄命を祀る古社に、正平10年(1355年)道真を合祀したと伝える。江戸時代から梅の名所で、新井白石や林羅山も訪れた。
家系図のなかの天神さま
人物神のため神々の家系図には入りませんが、菅原氏は土師氏の流れで、その遠い祖は天照大御神の子・天穂日命とされます。
よくある質問
- 天神さまはなぜ学問の神さま?
- 道真自身が、学問で身を立てた人だったからです。祖父・父に続いて33歳で文章博士(もんじょうはかせ)となり、詩文集『菅家文草』や、国史を分類した『類聚国史』をまとめました。室町時代以降に文筆・学問の神としての信仰が高まり、江戸時代に寺子屋とともに子どもたちへ広まったことで、いまの「学問の神さま」の姿が定着しました。
- 「天神」はもともと道真のこと?
- いいえ。天神はもとは天の神(天津神)を指すことばで、地の神(地祇・国津神)と対になる言い方でした。古い天神には、雷光とともに天から降る雷神の性格もあったとされます。道真が北野で雷の神と結びつき、「天満大自在天神」の神号が広まったことで、天神といえば道真を指すようになりました。
- 北野天満宮と太宰府天満宮、どちらが本社?
- どちらかがどちらかから分かれたのではなく、それぞれ別に創建された社です。北野天満宮は「天神信仰発祥の社」として全国の天満宮・天神社の「総本社」を、道真の墓所に建つ太宰府天満宮は「天神信仰はじまりの地」として「全国天満宮の総本宮」を名のっています。
- 「春を忘るな」と「春な忘れそ」、どちらが正しい?
- どちらも古くから伝わる形です。いちばん古い『拾遺和歌集』や『大鏡』は「春を忘るな」、平安時代末の『宝物集』や、のちの『十訓抄』『古今著聞集』などは「春な忘れそ」としています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、どちらが正しいとは一概にいえないとされています。北野天満宮は前者、太宰府天満宮と湯島天満宮は後者で紹介しています。
出典・参考資料
- 『拾遺和歌集』巻第十六 雑春
- 『菅家文草』巻第一
- 『日本書紀』巻第六(垂仁天皇)
- 『最鎮記文』・『北野天神縁起絵巻』(承久本)
- 北野天満宮 公式サイト
- 太宰府天満宮 公式サイト
- 湯島天満宮 公式サイト
- 観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「防府天満宮」
- 文化遺産オンライン「束帯天神像」(香川県立ミュージアム所蔵)
- 京都国立博物館「天神像」解説
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース
- 『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』「天神信仰」
神話の解釈やご利益には諸説があります。図鑑の書き方と絵の考え方はこの図鑑についてをご覧ください。