
ひと目でわかるサルタヒコ
| よみ | さるたひこのかみ(さるだひこのかみ) |
|---|---|
| 別名 | 猿田毘古神・猿田毘古大神(『古事記』)、猨田彦大神・衢神(『日本書紀』)、みちひらきの大神 |
| 神格 | 天孫降臨の道案内をつとめた国つ神、道と境の神 |
| おもなご利益 | みちひらき・交通安全・旅行安全・方位除け・厄祓い |
| おもな神社 | 猿田彦神社(三重県伊勢市)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、二見興玉神社(三重県伊勢市) |
| 家族 | 記紀に親や子の記述はない(伊勢の宇治土公家が子孫とされる) |
| 登場する書物 | 『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『倭姫命世記』 |
原文で読むひとこと
汝将先我行乎、抑我先汝行乎。対曰、吾先啓行
「あなたが私たちの先に立って行くのか、それとも私たちがあなたより先に行くのか」という天鈿女の問いに、猿田彦大神は「わたしが先に立って、道をひらいて行こう」と答えました。猿田彦神社は、この「啓行」の字に「みちひらき」の読みをあてています。
どんな神さま?
猿田彦神(さるたひこのかみ)は、天照大御神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の一行が高天原から降りてくるとき、天の八衢(あめのやちまた)——天上の分かれ道——で天孫を待っていた国つ神です。『古事記』は、この神が上は高天原を、下は葦原中国を照らしていたと語ります。名を問われると、天つ神の御子が降ると聞き、先導としてお仕えするために参上したと答えました。
『日本書紀』では「衢神(ちまたのかみ)」とも呼ばれ、長い鼻と赤く照る目をもつ大きな神として描かれます。天孫を導いたあとは、天宇受売命に送られて伊勢の五十鈴川の川上へ向かったとされ、伊勢市の猿田彦神社は、天孫の道を「啓行(みちひらき)」したこの神を、ものごとの最初に現れて最もよい方へ導く大神としてまつっています。
神話のなかのサルタヒコ
天と地を照らす神、八衢に立つ
邇邇芸命が降りようとしたとき、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいました。天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)に、「あなたはか弱い女だが、向きあう神に顔で勝つ神だ」と告げ、御子の降る道にだれがいるのか問うよう命じます。
問われた神は、「わたしは国つ神、名は猿田毘古神です。天つ神の御子が降りてこられると聞いたので、先導としてお仕えしようと、お迎えに参りました」と答えました。天と地を照らしていたその神は、地上の側から天孫を迎えに出てきた国つ神だったのです。邇邇芸命はのちにこの神を「猿田毘古大神」と呼んでおり、國學院大學の神名データベースは、先導の働きをたたえた呼び名とみる説を紹介しています。
胸をあらわにした天鈿女と、先に立つ約束
『日本書紀』の一書第一は、同じ場面をもっと詳しく伝えます。先払いの者が戻り、天八達之衢に、鼻の長さ七咫、背丈七尺あまりの神がいると報告しました。従う神々を問いにやっても、八十万の神のだれもその目ににらみ勝てません。そこで「目で人に勝つ」とされた天鈿女(あめのうずめ)が、胸をあらわにし、裳の帯をへその下まで押し下げ、笑いながら向かいあって立ちました。
名を明かした猿田彦大神に、天鈿女が「あなたが先に行くのか、私たちが先に行くのか」とたずねると、答えは「吾先啓行」——わたしが先に立って道をひらこう——でした。皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵触之峯へ、自分は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上へ行くと告げ、「わたしをあらわしたのはあなただから、送り届けてほしい」と願います。天鈿女は願いどおりに猿田彦大神を送り、皇孫はその功から、天鈿女に猿女君(さるめのきみ)の名を与えました。
阿耶訶の海に沈んだ3つの御魂
『古事記』は、その後の猿田彦神の姿も伝えています。阿耶訶(あざか)にいたとき漁をしていて、比良夫貝(ひらぶがい)に手をはさまれ、海に沈んで溺れたというのです。底に沈んでいたときの名を底どく御魂(そこどくみたま)、海水がつぶつぶと泡立ったときの名をつぶ立つ御魂、泡がはじけたときの名をあわ咲く御魂といいました。
阿耶訶はいまの三重県松阪市の大阿坂・小阿坂のあたりで、平安時代の『延喜式』神名帳には「阿射加神社三座」が載っています。比良夫貝がどの貝かはわかっていません。國學院大學の神名データベースは、水の底・中・上で3柱ずつ神が生まれた伊邪那岐命の禊の話によく似ていることや、伊勢の漁民の祭りや服属の儀礼を映した話とみる説を紹介しています。
古事記と日本書紀のちがい
記紀のなかで猿田彦神の顔かたちを語るのは、『日本書紀』第九段の一書第一だけです。本文にはこの神そのものが登場せず、『古事記』も、天と地を照らす光のほかには姿を記しません。鼻の長さ七咫、背丈七尺あまり(「いや、七尋というべきだ」と書き添えるほど)、口と尻が明るく照り、目は八咫鏡のようで赤いほおずきのように輝く——という描写は、一書第一のものです。平安時代はじめの『古語拾遺』も同じ場面を語り、鼻・背丈・口と尻・八咫鏡のような目を挙げますが、ほおずきのたとえは見えません。
名を明かす場面の運び方も違います。『古事記』では天宇受売命が問うとすぐに名のりますが、一書第一では神々がにらみ負け、天鈿女が胸をあらわにして笑いかけたあとで、ようやく名と来たわけを告げます。行き先も、『古事記』は語らずに阿耶訶で溺れる話を置くのに対し、一書第一は「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」とはっきり記します。逆に、阿耶訶の話と3つの御魂の名は『古事記』にしかありません。
名前の書き方は、『古事記』が猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』が猨田彦大神・猨田彦神で、「猨」は「猿」の異体字です。「猿田」の意味ははっきりせず、読みもサルタとサルダの両説があります。國學院大學の神名データベースは、戯れる人を表す「さるど」の転とみる説、神に供える稲の田とみる説、猿に守られたよい田の神とみる説などを挙げています。
姿のひみつ
この絵は、天の八衢で天孫の一行を待つ猿田彦神を、『日本書紀』第九段の一書第一の描写をもとに描いています。祭りの行列で見かける猿田彦は、鼻の高い面をかぶった後の時代の芸能の姿ですが、ここでは神話の場面として、記紀より前の古墳時代の男性の装い——左右の耳もとで輪にした髪、細い筒袖の白い衣、膝の下で結んだ袴、勾玉の首飾り——にしました。翼や羽団扇、一本歯の下駄など、のちの天狗の持ち物は描いていません。
長くまっすぐな鼻と、見上げるほどの背丈
一書第一は、鼻の長さを七咫(ななあた)、背丈を七尺あまりと記し、さらに「七尋というべきだ」と書き添えます。咫は親指と中指を広げた長さ、尋は両手を左右に広げた長さで、文字どおりに描けば人の姿を大きくはみ出します。絵では顔立ちが崩れない範囲で、ひと目でわかる長い鼻と大きな体にしました。
『日本書紀』神代下 第九段 一書第一/『デジタル大辞泉』「咫」「尋」
八咫鏡のように丸く、ほおずきのように赤く照る目
目は八咫鏡のようで、「赤酸醤(あかかがち)」のように赤く照り輝くとされます。赤酸醤はほおずきの古い名で、同じ『日本書紀』が八岐大蛇の目にも使うたとえです。國學院大學の神名データベースは、この目を、境に立って侵入者をにらみ返す神の力の表れとみる考えを紹介しています。赤いのは目だけで、顔は赤く塗っていません。
『日本書紀』神代下 第九段 一書第一・神代上 第八段 本文/國學院大學『古事記』神名データベース
口もとにともる光
一書第一の「口尻明耀」は、口と尻が明るく照り輝くと読むのが一般的で、猿の姿を思わせる表現だとする指摘もあります。絵では、天と地を照らした神の光が体からあふれ出るしるしとして、口もとにやわらかな光を添えるだけにとどめました。
『日本書紀』神代下 第九段 一書第一/國學院大學『古事記』神名データベース
雲の上で八方に分かれていく道
出会いの場所は、『古事記』では天の八衢、『日本書紀』では天八達之衢と書かれ、武田祐吉は「天上のわかれ道」と注しています。いくつもの道が交わり分かれる所に立つことから、『日本書紀』はこの神を衢神とも呼び、のちに村境や辻をまもる道祖神とも重ねられました。
『古事記』上巻「天降」(武田祐吉注)/『日本書紀』神代下 第九段 一書第一
天と地の両方へ広がる光
『古事記』は、この神を「上は高天の原を光らし、下は葦原の中つ国を光らす神」と紹介します。顔かたちには触れず、天上と地上の両方を照らす姿だけを語るのが『古事記』の描き方です。絵ではそのことばどおり、上の空へも下の大地へも光を放つようにしました。
『古事記』上巻「天降」
まっすぐに立てた鉾と、行く手を指す手
記紀の猿田彦神は武器を手にしていません。鉾は、祭りの行列で鼻の高い面をかぶり、矛を持って先導をつとめる「猿田彦」の役から取り入れたもので、『精選版 日本国語大辞典』はこの役を天孫降臨の故事からおこったものと説明しています。もう一方の手は、「吾先啓行」と先導を申し出たことばにあわせて、行く手を指しています。
『精選版 日本国語大辞典』「猿田彦神」/『日本書紀』神代下 第九段 一書第一
ご利益と信仰
伊勢とのつながりは、平安時代はじめの『古語拾遺』にすでに見えます。垂仁天皇の代に天照大神の宮が五十鈴の川上に建てられたことを述べたあと、「衢神先降」——衢の神が先にこの地へ降っていた——ことには深いわけがあったと記すのです。内宮の古い記録『皇太神宮儀式帳』(804年)では、倭姫命に五十鈴の川上をよい宮地として示したのが、宇治土公(うじのつちぎみ)らの遠い祖・太田命だったとされ、鎌倉時代の『倭姫命世記』は、この大田命を猿田彦神の子孫としています。
伊勢市宇治浦田の猿田彦神社は、宇治土公家が邸内に祖神をまつったことに始まり、いまも同家が代々宮司を務めます。拝殿の前には、昭和11年(1936年)の造営まで神座があった所を示す八角形の「方位石」があり、方角を刻んだこの石に、毎日多くの人が願いをかけていきます。5月5日の御田祭では、桃山時代の装いの植方が田楽にあわせて早苗を植え、三重県の無形文化財に指定されています。
後の時代になると、猿田彦神は道や境にかかわる信仰を広く引き受けていきます。中世には村境や辻をまもる道祖神と重ねられ、「申(さる)」の字の縁から庚申信仰とも結びつきました。各地の祭りでは、鼻の高い面をかぶり矛を持った「猿田彦」が神輿の行列の先頭を歩きます。天孫の一行の前に立った神話を、祭りのたびに演じなおす役どころです。
こうした由来から、みちひらき(開運)や交通安全、旅行安全、方位除け、厄祓いのご利益があるとされます。猿田彦神社でもこれらが祈祷のおもな願いに並び、境内社の佐瑠女神社には、天孫降臨の場で猿田彦大神と最初に向きあった天宇受売命がまつられています。
会いに行ける神社
猿田彦神社
三重県伊勢市宇治浦田
猿田彦大神と子孫の大田命をまつる。宇治土公家が代々宮司を務め、拝殿前に八角形の方位石がある。
椿大神社
三重県鈴鹿市山本町
延喜式に載る伊勢国一の宮で、猿田彦大本宮を名のる。妻神として天之鈿女命もまつる。
二見興玉神社
三重県伊勢市二見町江
沖に沈む興玉神石を拝む社で、夫婦岩はその鳥居にあたる。猿田彦大神と宇迦御魂大神をまつる。
白鬚神社
滋賀県高島市鵜川
猿田彦命をまつり、比良明神・白鬚明神とも呼ばれる。各地にある白鬚神社の根本社とされる。
阿射加神社
三重県松阪市大阿坂町・小阿坂町
猿田彦神が溺れた阿耶訶の地にあり、『延喜式』の「阿射加神社三座」にあたる。同じ名の社が2か所に鎮まる。
家系図のなかのサルタヒコ
記紀は猿田彦神の親や子を記していません。伊勢の内宮に仕えた宇治土公家は、鎌倉時代の『倭姫命世記』で猿田彦神の子孫とされ、いまも猿田彦神社の宮司を代々務めています。
よくある質問
- サルタヒコの鼻はなぜ長い?天狗と同じ神さま?
- 長い鼻は、『日本書紀』の一書第一にある「鼻の長さ七咫」という描写によります。天狗は山伏の姿をした山の怪異で、記紀の猿田彦神とはもともと別の存在です。鼻の高い面の源には、伎楽で行列の先払いをした「治道(ちどう)」の面があるとされ、祭りの先導役の猿田彦も、若狭の王の舞の鼻高面も、その流れをくむといわれます。山伏姿の天狗の像ができあがったのは中世以降で、鼻の高い面という共通点から、両者が重ねて見られるようになりました。
- サルタヒコとアメノウズメは夫婦なの?
- 記紀には、2柱が結婚したとは書かれていません。『古事記』では邇邇芸命が天宇受売命に、猿田彦神を送り届け、その名を負って仕えるよう命じ、『日本書紀』の一書第一では、天鈿女が猿田彦大神の願いに応えて伊勢まで送ります。この縁から2柱を並べてまつる神社があり、椿大神社は天之鈿女命を「妻神」としてまつり、猿田彦神社の境内にも天宇受売命をまつる佐瑠女神社があります。
- 庚申塚や道祖神とサルタヒコには、どんな関係があるの?
- どちらも後の時代に結びついたものです。村境や辻で災いをさえぎる道祖神(塞の神)は、境に立つ衢の神と同じ性格をもち、天孫を先導した道案内の神として猿田彦神と重ねられました。庚申信仰は、60日ごとにめぐる庚申(かのえさる)の夜を眠らずに過ごす習わしで、「申」と猿の縁から、猿を神の使いとする日吉山王の信仰や猿田彦神と結びつきました。江戸時代には、儒学者で神道家の山崎闇斎が、猿田彦大神を本尊とする神道式の庚申信仰を説いています。
出典・参考資料
- 『古事記』上巻(武田祐吉訓読)
- 『日本書紀』神代下(第九段 一書第一)
- 『古語拾遺』
- 國學院大學『古事記』神名データベース(猿田毘古神・底度久御魂)
- 國學院大學『古事記』地名データベース(阿耶訶)
- 猿田彦神社 公式サイト(由緒・境内のご案内・行事・祭典・ご祈祷)
- 椿大神社 公式サイト
- 『精選版 日本国語大辞典』「猿田彦神」「椿大神社」「白鬚神社」
- 『世界大百科事典』「猨田彦大神」「天狗」「庚申信仰」「道祖神」
- 『日本大百科全書』「猿田彦神社」「二見興玉神社」「王の舞」
- 『日本歴史地名大系』「阿射加神社」
神話の解釈やご利益には諸説があります。図鑑の書き方と絵の考え方はこの図鑑についてをご覧ください。